スポンサーリンク
1958年ドラマ『バス通り裏』で女優デビュー。当時15歳。
美貌と演技力で『魚群の群れ』『極道の妻たちII』など数々の名作映画・ドラマに出演。
2018年には『高嶺の花』で風間節子役を演じるなど60年間第一線で活躍し続る。
日本アカデミー賞では優秀主演女優賞を5回受賞。
1984年 第7回 「魚影の群れ」「この子を残して」
1986年 第9回 「櫂」「花いちもんめ」
1988年 第11回 「極道の妻たちⅡ」「螢川」「夜汽車」
1990年 第13回 「社葬」「ハラスのいた日々」
1996年 第19回 「日本一短い「母」への手紙」
2003年には紫綬褒章受賞。2014年には旭日小綬章受賞。
芸能生活60周年の節目に出版した初の自叙伝が大きな話題に。中でも世間を驚かせたのは、赤裸々につづられた数々の恋愛秘話。
十朱幸代 自叙伝『愛し続ける私』集英社は、60年の芸能生活を赤裸々につづった一冊。
大女優であると同時に恋多き女としても世の中から注目されてきた。
数々の恋が自分を成長させてくれたという。
今だから話せる恋愛秘話
最初の恋愛
歌手で俳優になった小坂一也。1954年アイドル歌手でデビュー。1957年映画デビュー。演技派俳優として活躍。
十朱幸代は17歳。小坂一也は7歳上。子どもとして扱われる中、初めて女として扱ってくれた。
隠し事が苦手でバレるので、2人の関係はオープンだった。楽しかったが、女優としてスタートしたばかりだったので結婚はしないと決めていた。
14年間くらいと恋愛が長く、一緒に住んでいたので「結婚しました」にしたが、入籍はしなかった。
「好きな人ができたから出ていく」と言われた。いきなり大きな穴に落ちて真っ暗みたいな感じだった。
大失恋の後 超モテ期が
自由だった。華開いた。声をかけられた。
お相手は相手役が多かった。愛し合う役は錯覚する。好きだと演じていると、好きなんだと思ってしまう。
結構バレて追いかけられた。デートは結構大っぴらにしていた。
自宅の前でマスコミが待機
ちょっと大変だった。1~2ヶ月ずっと出入りを見張られていた。近所の人が「お寒いのに大変ですね」とお茶を出してしまっていた。
待機されているとき、家の中では別れ話をしていることがあった。
そっと隣の塀を登って隣の出口から出入りしたことも。
結婚の話が出ると別れがくる。結婚する気がないので。
今は気になる男性はいない。
若さの秘訣を公開
自宅の書庫を見ればわかるが、かなりの健康オタク。
料理
ヨーグルトにはバナナ・ナッツ・きな粉・アミノ酸パウダー・ハチミツ・干しぶどうをトッピング。チーズ、野菜、ゆで卵、たくさんのフルーツ。ヨーグルトにはシナモンをかけて食べる。
朝食に欠かせないのがティーポットで丁寧に入れた紅茶。
朝食だけでなく食べることにはすごくこだわっている。料理は全て自分で作る。
最近の得意料理は餃子。人が来たときはたいてい餃子。特にパクチー。隠し味に味噌と気持ち砂糖、ごま。
若いときから仕事で料理は全然できなかったので、20~30年前から。
スーパーも大好き。道の駅とか。新鮮なもの出来のいいものの選び方がわかる。
グレープフルーツは先が尖っているより丸いほうがおいしいとか、キャベツの芯は短い方がおいしいとか。
運動
ジムで週4日間。小1時間。器械を使ったり、水中ウォーキング。ちょっと汗をかくくらい。
ヨーグルトのホエーでパック
シートに浸してラップを被せて10分。その間、本を読む。
マウスピースで良質な睡眠
最近凝っているのは、マウスピース。歯ぎしりを防げる。口を開いて寝なくなった。
朝起きたときマウスピースを取ってマウスピース洗浄をすると入れ歯みたいで引いてしまう。
自宅の愛してやまないもの
愛犬 きらら。十朱幸代の日課 足湯が終わると、きららにソックスと靴を持ってきてもらう。
ガーデニングが大好きで、自分で植木を剪定。伸びた枝を迷うことなく豪快にカット。電動枝切り鋏も見事に使いこなす。
春の庭 ↓
一番愛するものはクローゼット。ハンドバッグ、メガネ・サングラス、セーター類、洋服、革製品などが入っている。
断捨離をしたが、職業病で着るものはいろいろ買ってしまう。断捨離した洋服はあげたり、ネットで出したり。
バッグは売ったことがある友人と一緒に売りに行ったが、スエードの新品で箱に入ってピンクで全然使わなかったのが高く売れると思ったが、あまりいい値段はつかなかった。スエードはすぐにダメになるので売れ行きが悪いそう。
歌手デビューもしている。
1981年に『ピローフレンド』、1983年には『他人の自由』
デビューはモデル
街でスカウトされて「ちょっと洋服着て写真撮らせて」というのがきっかけで、モデル事務所に入っているわけでもないのに、1日に3~4ヶ所回ることも。
当時の雑誌『ジュニアそれいゆ』で。当時15歳。中原淳一という有名デザイナーの服。
お父さんが俳優で、ホームドラマに出ているときに、見るのが大好きだったので、呼ばれもしないのに見に行ったら、プロデューサーに「カメラテスト受けてみない?」と言われた。
何も女優の勉強はしていなかった。いきなりスタジオで、あの頃は生番組。毎日の番組。今の朝ドラの原型のようなもの。
毎日失敗していた。セリフが出てこなくて「あれっ何だっけ?」と言ってしまった。共演者に「こんな風に言いたいんだろ」と言われ「それで?」と言ってしまった。
給料は封筒に入れて1週間分をまとめてくれた。高校1年生で、たまにしか学校に行けなかったが、行くとみんなにおごってあげていた。釜飯とかお茶。15歳にしてはお金を持っていた。
20歳で家を建てた
1964年放送『マイホーム時代』より
スポンサーリンク
コメント (0)
コメントを書く